荒木夏実(森美術館キュレーター)
≪メインストリームを行く≫という景気のいいタイトルをもつ作品の制作のために、山下麻衣と小林直人のコンビが起こした行動は、ナイル川とアマゾン川をゴムボートで下ることだった。言葉の比喩を転倒させ、駄洒落を真に受けたような彼らのコンセプトは、しかし、冗談の域を明らかに超えている。「メインストリームを行く」ことを体現するために、時間と金と危険を賭して、世界を代表する大河めざして旅すること。その突拍子もない愚行は山下+小林の独特な持ち味である。
こつこつと、淡々と、ユーモアをたたえながら(しかしうっすらとした狂気をも漂わせながら)挑む山下+小林の仕事はどのようなものか。まず特筆すべきは、彼らの時間に対する態度だ。山下+小林は、それが予想通りになるかは別として、最終的な作品のヴィジョンを初めからかなり明確に捉えている。なでられ続けて金色に変色したブロンズのらくだ、ボーリング大から粒状にまで小さくなったキャンディーなど、捉えたイメージの場所から時間を巻き戻すかのようにスタート地点に立ち、あとはひたすら時間と労力を注ぎ込む。「自分の時間なんていくらでも費やしてやるぞという気分」と語る小林の言葉は、細分化された時間を切り売りしながら日々を成り立たせる現代のシステムにおいて、実に潔くかつ非常識に響く。
さらに山下+小林は、時間を人為的に操作して扱う。≪When I wish upon a star≫では、流れ星の一瞬の動きを映した映像をスローモーションで2分の長さにまで引き伸ばし、延々と続く願い事のナレーションを組み合わせる。あるときは自らの時間を素材として投入し、あるときはヴィデオの技術を用いてコントロールすることによって、山下+小林は時間を延ばしたり縮めたりして、あたかも粘土のようにこねくり回すのである。
そして彼らはしばしば「奇跡」を企てる。5個のサイコロを同時に振る≪miracle≫では、サイコロがゾロ目を出す場面だけをつなぎあわせ、互いが念じたものを推測して絵を描きあう≪telepathy≫では、そのイメージが合致した場面だけを集めている。奇跡の連続は、見る人を驚かせ楽しませる。しかしそれは、時間を費やすことを厭わない山下たちによる、膨大な実験を重ねた結果なのである。つまり、テレパシーが通じた10回のケースの裏には、990回の失敗があるということだ。
それにしても、時間を味方につけた山下+小林の行為を通して、私たちは奇跡が確実に起こることに気づかされる。長年のパートナーである山下と小林ほどにはテレパシーは通じないかもしれないが、それでも思いが伝わる可能性は存在するのだ。それはミラクルであると同時に自然や宇宙の摂理なのである。
山下+小林は、自然と人との関係を強く意識し、作品の中でさまざまな実験を行う。≪TARZAN≫では、映画のターザンの雄叫びを動物園の動物たちに聞かせて反応を確かめ、≪Release of mineral water≫では、日本の酒屋で売られていた瓶詰めのミネラルウォーターを、故郷のドイツの川に放流しに行く。ジャングルと動物園、自然の川と商品としての水という対比が、オリジナルの自然と人間に飼いならされた自然との関係をユーモラスかつ物悲しく語っている。
また、彼らはしばしば動物を美術の制作者として介在させる。ライオンの檻にキャンバスを入れる≪Lion & Canvas≫では、ライオンの歯や爪の跡が残るキャンバスを「絵画」として提示し、≪Forest Dishes≫では野生動物に器を踏ませてその足跡をデザインとして扱う。≪前方回転する染谷さん≫に登場するのは人間だが、身体的運動の結果としてできた手足の痕跡を作品化するという点で、作為を排除して「動物」の動きを捉えようとする試みといっていいだろう。山下+小林は、動物を人間の領域に引き寄せ、同時に人間の動物的要素を引き出すことによって、人と動物、ひいては人と自然の接点を探るのである。
≪Dogsled≫は、人と自然とのせめぎ合いを象徴する作品として見ると興味深い。複数のラジコンカーにフェイクファーの服を着せて「擬似犬」に仕立て、山下が乗った車を犬ぞりよろしく引かせるというものである。おぼつかない操作を経て、ぎこちない犬ぞりの動きはやがて止まるのだが、行進中のラジコンカーが発するノイズがあたかも動物の悲鳴のように響くのが印象的だ。それは人間に従属することへの動物たちの抵抗(さらにいえば、無理な仕事を課せられる機械の抵抗)のように映る。山下+小林の作品には珍しく、やや悲観的なトーンをもつこの作品からは、あらゆるものをコントロールしようとする人間の習性への警告が感じられる。
圧倒的な自然の前に、人間は非力である。それでもなおささやかな技を自然の中に刻もうとする、太古の昔から行われてきた人間の試みを、山下+小林は繰り返しているかのようだ。しばしば私たちは、かつての人間の創造や自然の営みの軌跡を考古学や歴史を通して知るが、山下+小林の作品には、考古学のパロディーまたはダイジェスト版のように見えるものがある。例えば≪Candy≫における溶けて小さくなるキャンディーは、何世紀もかかって風化する自然の形の変化を凝縮したように見える。≪Forest Dishes≫の動物の痕跡は化石に似ているし、≪Infinity≫の呪術的な形は謎の遺跡のようである。≪Rubbing a Camel≫は、御利益を求める人たちから触られ続けた仏像の経年変化のパロディーといえるだろう。願望、時間、物理的変化という要素が絡み合って立ち現れるイメージの中に、人間の欲の姿が見える。
願掛けというテーマは≪When I wish upon a star≫にも現れる。「星に願いを」というロマンチックなタイトルとは裏腹に、念仏のように願い事を唱え続ける山下の声からは、人間の果てしない業が感じられ、おかしみとともに空恐ろしさを覚える。星の流れる速さを変えて己の欲をありったけ羅列する山下の行為は、不謹慎に違いない。しかし、彼女を笑える人はいないだろう。便利さと豊かさを求めて自然に介入し尽してもなお、まだ足りないと言い続けているのが私たち現代人なのだから。外国の川の水を買い、動物や機械を酷使し、あとは神頼みで仏像をなでさする…。山下+小林はそんな節操のない人間の姿を、ユーモアを交えながら軽やかに批評してみせる。
山下+小林が作品の中で奇跡を起こしたように、彼らの尽きせぬ願いはかなうのだろうか。そもそも彼らは「
山下+小林はこれからも道からはずれ、奇跡を作り続けるだろう。作品の中で微笑みあう二人の幸せそうな表情が続く限り、その彼らの選択は正しいのだと思う。